それでいいのか、のつづき

 このあいだのエントリ*1といただいたコメント*2について、思うことをすこし。コメント欄に書くと長くなりそうなので、別エントリとして。たたみます。
 学生時代に政治を専攻していた身としては(一応これでも政治を勉強してたのです)、あまりにも世論が一方的になりすぎるということに対して、危険度が高いと感じてしまう。世論が統一されるのはいい面もあるけれどもちろん危険性も孕んでいるわけで、別の意見を知ることによって存在する抑止力というのが働かなくなる可能性が高くなってしまう。あまりにも熱狂的に一方の意見を採用してしまうということは、しばしば歪みを引き起こしてしまうのだ。さまざまな意見が存在することをよしとして、その上で自分の意見を持つということが本来のあり方だと思うのだけれど、それ以外の意見があるということすら許容できなくなってしまう。そして、自分が正しいと思っている意見以外を、すべて悪だととらえがちになってしまい、悪は排除しなければ、という方向に走ってしまう。それはとても怖いことだ。
 本来、そこで正しい民主主義ならば話し合いをした上でどうするかを決められる。ただ、民主主義というのは成熟した民衆のもとでしか成り立たなく、それは今の日本には望むべくもない。死刑制度についてこれだけ熱狂的に死刑賛成ばかりを唱える人たちばかりの中で、しかもきちんと考えた結果、死刑に賛成だと言っている人がどれだけいるのか疑問符だらけの社会の中で、公平な判断のできる民主主義が機能しているとは思えない。やまざわくんの言う、「他者からの意見を受け入れない、他者に対する攻撃となる構図」がまかり通る社会は不気味だ。数年前にイラクで拘束された人たちに対して、国も一般の人たちも「自己責任」という言葉を突きつけていたあの事態だって恐ろしい。そんな言葉ひとつで、人の命が失われそうになっても助けようとすらしない人たちは気味が悪い。
 id:Siegfried2さん(はじめまして、コメントありがとうございます!)の、「ネットが普及して、その匿名性によって、対面のつきあいでは抑制されてきた暴力性のようなものが首をもたげ上げてきて、連鎖して、大きな塊となりつつある。そんな怖さを感じるのです」という文章には頷かざるを得ない。今までだったら言えなかったことが、匿名という大きな隠れ蓑を得たことによって容易に言えるようになってしまった。いわば虎の威を借る狐がわらわらと出てきてしまったことで、この国はどんどん悪い方向に向かっているようにしか思えない。自分で自分たちを鼓舞して、みんなで闇に突き進んでいるように感じられてしまう。もうちょっと、自分以外の人のことも考えようよ、と言いたくなる。こういう、一方的な考えに凝り固まった社会の怖いところは、想像力が欠如していることだ。自分だったらどうするか、そういう場になったらどうするか、ということを一切考えていない。ちょっと話はそれるけれど、だからこそ裁判員制度もかなり怖いと思う。今のような、死刑賛成という意見が大勢を占める状態で刑事裁判に関わったとしたら、自分たちは裁く側だ、と驕る人が必ず出てくる。当事者の立場になることもなく、高みの見物を決め込んで刑罰を決める場に立ち会うと、極端な結論になりやすいと言えるだろう。そもそも専門的な知識を持ち合わせていない私たちが裁判に関わるのは難しいことだし、検察官や弁護士、裁判官ほどにそれまでのサンプル数を持っているわけでもなく、実際に罪を犯してしまった人たちと会う機会がなかったのにいきなりそれに関わってくださいと言われても、どうすればいいのかわからない。とても危うい制度だと思う。
 閑話休題。ではどうやって社会のバランスを取ればいいかというと、まずひとりひとりが自分で考えることだと思う。シンプルでばかばかしく思えるけれど、それすらしていない人が多いと思う。メディアに踊らされることなく、周りの人の意見に影響されることなく考えて、自分の意見を持つこと。それができたら、もうちょっと社会が変わる気がする。自分で知る、考えることがいちばん大事だ。
 そして、死刑制度について。私は今現在、どちらかというと死刑には反対の考えを持っている。鳩山大臣は「正義の実現のため」と言っているけれど、果たしてそれは正義なのかという疑問を拭えない。人を殺してはいけないと言っているなら、国だって殺すべきではないと思っている(ただ、大いに矛盾しているところなのだけれど、光市の犯人に対しては死刑が妥当だと思っている自分もいて、こういうところは自分でも説明がつけられない。情けないけれど)。今回の死刑執行にしても、「時期はたまたま」と言っているが、時期を考えていないわけはないと思う。就任以来、数ヶ月に1度必ず死刑を執行しているし、おまけに今回は秋葉原の事件があった直後、死刑を執行しても反論が表に出てきにくい時期だ。「粛々と執行命令を出した」という言葉も空々しく聞こえる。それと、どうして今回宮崎勤死刑囚の執行をしたのか。もっと前の時期に確定死刑囚になった人だってたくさんいる。宮崎勤死刑囚は、刑が確定してから2年とすこししかたっていない。それなのにどうして今回だったのか。そういうことを、きちんと開示すべきではないかと思う。そして、死刑というのは実際はこうやって行われているのだということも、もっと広く知らしめなければいけないのではないかと思っている。そしてその上で、考えるべきなのだと思う。
 長くなった上にまとまらないけれど、ひとまずここまで。これからも、これについては考えていかなければならないと思っている。やまざわくん、Siegfried2さん、ご意見ありがとうございました。