読了本

 児童文学としてのムーミンとアニメのムーミンしか実際に見たことはないけれど、コミックスのムーミンも読んでみたいと思わされた。ユートピアさながらの穏やかな場所に見えるムーミン谷ではあるけれど、コミックスと児童文学、児童文学とアニメ、などと考えていくと、一筋縄ではいかなかったのだなと思う。でもだからこそ、読者や視聴者はムーミンたちに親しめたのだろうし、爆発的な人気も得られたのだろう。小説も読んでみたい。

ムーミンのふたつの顔

ムーミンのふたつの顔

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

 エッセイということばではなく、あくまでも随筆、といいたい幸田文の文章。ぴしっと1本芯が通った、背筋の伸びた女性を感じさせる。自分の着てきたきものや着られなかったきものに対して思いを馳せ、常にまっすぐな視線を向けているというのがよくわかる。しゃんとした女性、というのがいちばんぴったりくるような。こんなふうにきものを着られる人になりたいと思う。
幸田文 きもの帖

幸田文 きもの帖

 『小学生日記』の幼くもみずみずしい文章から比べると大人になったな、と思う。思春期特有の「ウザイ」「めんどくさい」感情もそのまま書いてあるのが素直でいい。もう戻らない時間をこうやって記憶する術を持っている人は強いなと思う。
ひとりの時間―My Fifteen Report

ひとりの時間―My Fifteen Report

 なんて上手いんだろう。決してありえない話ではなく、それどころか日本のどこかで同じようなことが今日も起きているのではないか、と思わせてくれるほどのリアリティ。濃密な時間が6編それぞれに流れていて、どれも読み終わってしまうのが惜しいほど。表題作がいちばん好きだ。
風に舞いあがるビニールシート (文春文庫)

風に舞いあがるビニールシート (文春文庫)

 不思議で、ありえなさそうな、でもそこらへんにありそうな穴。自分でも忘れ去ってしまっていた記憶をすくい上げ、取り戻していく話。今このときに「自分」と「他人」だと思っているものや、事実と記憶の境界のあいまいさ。ひたひたとした静かな沼にゆらゆらと漂うような雰囲気に、どっぷり浸った。坊との最後の会話が、ひどく胸に迫った。
f植物園の巣穴

f植物園の巣穴

 たしかにこれだけ「英語を勉強しないと」と日本全体が脅迫的に感じている時代もないのかもしれない。英語さえできればなんとかなる、と思っているのがどうにも気持ちが悪い。米原万里さんの著書に「外国語というと英語しか連想しない」といった意味のことが書いてあり、それに深々と頷いたことを思い出す。日本語すら自由に操れない日本人が増えるのかと思うと、溜息しか出ない。ただ、日本人自らも、アイヌ語や数々の方言を亡びさせてきた事実を忘れてはいけないのだと思う。同じ轍は踏んではいけないのだ。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で