読了本

 中国で生まれ育ちながらも「自分の半分は西洋人だ」と言い切るシャンサと、フランスで生まれモロッコで育ち、今は日本語をあやつりながら行きているリシャール・コラスとの、フランス語による往復書簡。手紙というよりは、それぞれのオリジナル小説の草稿を垣間見ているような印象。一見日本と何もつながりのないように見えるふたりが、実は深いところで日本とつながっていること、国籍も人種も違うひとたちがここまで深く通じ合うための言葉ということについて深く考えさせられた。

午前4時、東京で会いますか?―パリ・東京往復書簡

午前4時、東京で会いますか?―パリ・東京往復書簡

 失敗したこと、嫌なことは怒りや恥ずかしさなく客観的に見られるまでに切り離すこと、そのためにはリズム呼吸が必要なこと、そう難しいことではないので実践できそうな気がする。メンタルが強い、弱いの問題ではなく、弱いと感じられるのならば、それはメンタルのシステムがうまく働いていないということ。こう言ってもらえると、自分にもできそうな気がしてくるから不思議だ。自分のメンタルを上手にコントロールできるようになれば、もっと楽にいろんなことに対して立ち向かうことができると思う。  痛快でまっすぐな文章を書く米原さんの芯は、ここでつくられたのだと実感する在プラハソビエト学校。その当時、共産党員として現地に赴いた父に同行してチェコにいた著者の経歴は目を引くけれど、こういう理由があったのだ。日本とはまったく違う文化の中に放り込まれ、それでもたくましく言葉と文化を学び、礎を築いたことに深く感心する。子どもなりの気遣いや思考のベクトルを見ていると、今の日本とはまったく違うことを痛感させられる。行ったこともない中・東欧が、米原さんの言葉でまるで自分の体験のように感じられた。
嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ)

 恐ろしいほどのリアリティ。これが角田光代の真骨頂かもしれない。誰にも共感はできないのに、登場人物すべてに自分と共通する点があるような気がしてしまうし、後半になればなるほど不安で不安で指先がぞわぞわしてくる。表面上は和やかなのに、一歩引いて見てみると真っ黒い感情が渦巻いていて、それが本当に怖い。もちろん例外はあるのだろうけれど、子どもを通した付き合いはこんなに難しいものなのかな、と考えてしまう。ほんの少しの違和感の増大、必要以上の依存、現実の縮図がこの1冊の中にある。怖いのに読むのをやめられない秀作。
森に眠る魚

森に眠る魚

 懐の大きい、という言葉が真っ先に浮かぶ。人であるもの、人ではないもの、そのどちらをもそこにあるものとして受け止める悠然さ。梨木さんの、「理解はできないけれども受け容れる」という言葉に相通ずる世界。こんな空気が、ほんの100年ほど前の日本にあったのだ、ということになんだか感心してしまう。ひとつひとつの動物や植物に独自の世界があり、だれもそれを侵さないし、尊重する。こんなところで生活したら、それこそ「私の精神を養う」ことになるのだろうと思う。何回読み返しても、新たな感動がある。
家守綺譚 (新潮文庫)

家守綺譚 (新潮文庫)

 日本人の著者とユダヤ人の夫のあいだに、ペルーからの娘が来た。自分のおなかを痛めて産んだわけではないけれど、娘に対する視線はどこまでも優しく、そしてきりっとしている。ボランティアに行った病院で、患者に向ける視線も同じだ。一時の感情の揺れに惑わされることなく、本質を見たいと願っている人なのだと思う。 学校なんて、命をかけてまでも行くところじゃない。私は自分の実体験からそう思っている。いじめられていた当時、自殺を考えたことはなかったけれど、私はその代わりに学校に行くことを放棄した。命を投げ出すことに比べれば、それでよかったと今でも思っている。でも、遺族の苦しみはいかばかりだろうか。学校という場の歪みを感じずにはいられない。
せめてあのとき一言でも―いじめ自殺した子どもの親は訴える

せめてあのとき一言でも―いじめ自殺した子どもの親は訴える

 須賀敦子という人の文章は、どうしてこんなに静かで凛としているのだろう。何かを訴えるときに、決して声高になるのではなく、自分の言いたいことを周りの人にしっかり伝えていく、という風情。きっと著者本人の中に芯のようなものがあって、それは何があってもぶれることはないのだろう。しっとりした、手触りのある文章だと思う。
霧のむこうに住みたい

霧のむこうに住みたい