読了

 死刑をどうとらえるか、今後どうしていったらいいのか、一筋縄ではいかない問題だ。私もある程度の持論はあるけれど、その中に矛盾が存在するのも知っている。たしかに、「情緒」があるからこそ、人の命をどう扱うかということはセンシティブな問題になるし、声高にどちらの結論を唱えることも、私にはできそうにない。ただ、それでも考え続けること、感じ続けることはやめてはいけないのだと強く思う。周りの意見に流されず、感情に走りすぎることもなく、本当にそれが自分の考えなのかを見極めながら。

死刑のある国ニッポン

死刑のある国ニッポン

 わかるわかる、と思うところはあれど、正直そこまでおもしろいかと言われると、うーんという感じ。山本文緒のファンだったらおもしろかったのかなあ。ただ、「ごはんが食べられなくなるのが恋愛、一緒にごはんを食べられるようになるのが愛。一緒にごはんを食べたいと思うようになったら結婚してもいいんじゃないか」という意味の言葉は、まさに至言。
日々是作文

日々是作文

 なんなんだ、この脱力っぷりとゆるさは。でもそれが決してだらしない感じにはならないし、くっくっく、とひとり部屋のすみで体育座りをしながら笑いたくなってしまう。思い出の売買、携帯電話の履歴、不思議な古本、タカオ、どこまでが本当のことでどれが創作なのか、よくわからないその曖昧さがいい。ほむほむはやっぱりちょっとヘンで、いい味出してる。『にょっ記』はうちの父の本棚にもある(それにびっくりした)。父は理解できないと言っていたけれど、私は大好き。
にょにょっ記

にょにょっ記

 なんて素敵な静子さん! 自分も歳をとったらこんなおばあちゃんになりたいと思ってしまう。おばあちゃんは「おばあちゃん」という生き物だ、と考えてしまうけれど、私たちがひとりひとり違うのと同じ様に、おばあちゃんもひとりひとり違うのよね。バスに乗ってフィットネスに行き、泳げなかったのにバタフライまで泳げるようになってしまう軽やかさ。ほんの小さな冒険を楽しみにして生きる静子さんがとてもチャーミング。湿り気のある恋愛を書くのが得意な井上荒野さんとは思えない、さわやかな作品だった。
静子の日常

静子の日常

 電話でもなく、メールでもなく、アナログな手紙のやりとりだからこそ伝わるもの。伝えたいという思いは、時間をかけるからこそ純粋な思いになるのかもしれないと思う。日常の生活の中で、ほんのちょっと歩みをゆるめて大切な人に手紙を書く時間が、ごくごく個人的ですごくいとおしいものなんだろうな。誰かに手紙を書きたくなった。いつか、この続きを読んでみたい。
いつか、僕らの途中で

いつか、僕らの途中で