読了本

 凄惨で壮絶な現場、としか言いようがない。あまりの事故の大きさに、食べていたアイスが溶けるのもかまわずにテレビの画面に食い入るようにしてニュースを見ていたのを思い出す。ただ単なる飛行機事故、520人死亡という言葉だけでは言い表せない事態。その裏で、すこしでも多くの遺体を遺族のもとに返そうと奮闘した人たちがこんなにいたのだ。この事故で人生観が変わった、というのも頷ける。

墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便

墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便

 本と書店をモチーフにしたアンソロジー。アンソロジーならではで、今まで読んだことのない作家の短編も読めてよかった。それぞれが本や本屋さんを愛しているというのがじんわり伝わる、暖かい話ばかり。本をテーマにしていても、これだけ幅の広い1冊になるのだから、やはり読書は個人的趣味であると思うけれど、だからこそそれを共有できたときの喜びは大きいのだなと感じる。
本からはじまる物語

本からはじまる物語

 すみれの花の砂糖づけ、なんていう甘い言葉からは想像もできないような詩も含まれている、江國さん初の詩集。「だれのものでもなかったあたし」「ちび」「あたしはリップクリームになって」「時間」が特に好き。ひりひりしてじかに触るのはためらわれるような、でも目を逸らすこともできない生の感情。過去ではあっても、決して思い出にはなっていないことなんかを思い出させられる、ときおり不穏な1冊。
すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

 お世辞にも文章が上手いとは思えないのに、なぜか突然読み直したくなってしまうよしもとばなな。少女マンガみたいだとかコバルト文庫みたいだと言われるのも否定はしないけれど、それでも、という魅力がやっぱりある。表題作より、「満月」と「ムーンライト・シャドウ」のほうが好き。
キッチン (新潮文庫)

キッチン (新潮文庫)

 思い当たることがありすぎて、痛いというか目をそらしたいというか。今思えば何でもなかったようなことでも、当時の自分にとってはもういっぱいいっぱいで持て余していた、ということも覚えがある。共学校と女子校の違いはあったにせよ、私の通っていた地方の進学校もこんな感じだったなあ、と思い出す。地味だ地味だと自分のことを書いているけれど、そのなかでなんとかがんばろうとする姿にすごく好感を持つ。たぶん、大いに、当時の私をオーバーラップさせているのだろうけれども。
底辺女子高生 (幻冬舎文庫)

底辺女子高生 (幻冬舎文庫)

 夢と現実のあわいを行き来するような、ふわふわとした不思議な小説。あとがきで著者本人も、小説かエッセイかを訊かれたら「小説、なんですけれど…」と自信なさげに答える、ということを書いているのだから、その不思議さは折り紙つきだ。とはいえ、そんな流れの中でも、料理をしていたときにはねた油でやけどをしたり、引っ越し準備の最中にぎっくり腰になってしまったりする。生活は続くのだ。日常のささいな幸せと冒険。曇天の空の下、そこだけぽっかりとまあるく日が当たっているような印象の本。
ゆずゆずり

ゆずゆずり

 硬質で、すっと背筋を伸ばしたような文章。言葉に対する姿勢が垣間見えて、好感が持てる。アナウンサーという職を捨てて単身フランスに渡り、孤独と言葉の壁と闘いながら等身大の日常を送る。友達も増え、フランス語に不自由がなくなり、そして留学生としてではなく住人として見ることになったパリ。その目を通したパリを、もっと読んでみたい。
金曜日のパリ (小学館文庫)

金曜日のパリ (小学館文庫)

 三浦しをんは小説とエッセイでギャップがある作家リスト、なんていうのをもし作ったらかなり上位に来るんじゃないかと思う。小説はずっしりとした手触りのものが多いのに、本人の生活を綴ったなんでもない日記がこんなにおもしろいとは。あちこちで妄想・空想が繰り広げられて、笑わずに読むのは難しい。こんなにあけっぴろげにしてしまっていいのだろうか、と心配になるほど。
ビロウな話で恐縮です日記

ビロウな話で恐縮です日記

 著者の関わった須賀敦子ではなく、須賀敦子の書いたものを通して須賀敦子本人を知ろうとする本。私情や主観を極力差し挟むことなく、あくまでも客観的な立場を貫き、須賀敦子が何を書こうとしていたのか、何を表現したかったのかを検証していく。自分が須賀敦子の文章について持っていた印象を上手く言語化してくれていて、やはりそう思うのは自分だけではないのだ、と思うところもいくつかあった。もっと須賀敦子の書いたものを読みたかった、とつくづく思う。装丁が素晴らしい。
須賀敦子を読む

須賀敦子を読む