読了

 角田さんの、旅をメインとしたエッセイ集。「旅は好きなのに旅慣れていない」とご本人は書いているけれど、いやいやどうして。私はザックを背負ってタイに2ヶ月、というようなタフネスを要求される旅が本当にできないので、もうそれだけで尊敬に値してしまう。人間の細胞は常に入れ替わっているそうだから、その旅のときの細胞はもう体には残っていない。それでも、これは自分にも言えることだけれど、必ずその旅ごとの影響は自分自身の中に核として残っている。そしてそれを大事に積み上げてきた人なのだろうな、と思う。

水曜日の神さま

水曜日の神さま

 とかく「具合が悪い」と言えば行く先は病院で、そういう私も漢方医にかかったことは、まだない。ただ、女性はこのくらいの年齢になるとどうも不調を訴えることが多く、そこで行き着く先が漢方というのは自然なことなのかも(マクロビやホメオパシーもあるにはあるが)。中島さんの書く女性は、自分の身の回りに本当にいそうな人たちばかりで、好感が持てる。軽めでさらっと読める本。
漢方小説 (集英社文庫)

漢方小説 (集英社文庫)

 7人の女性の、それぞれの恋愛模様を描いた連作集。婚約という人生でいちばん楽しい時期を、「本当にこの人と結婚していいのだろうか」と思い悩む人は多いのだろうか。私自身はそういうことはなかったのだけれど、仕事と家庭をどうやって両立させていくかなど、女性ならではの悩みは多い。突然出奔してしまったり、夫の愛人だった人の姉に会ったり、実際にそういうことはなくても、そうなってしまうかもしれないというのが女性の狂気。女性だからこそ強くなきゃ生きられないよね、と思ってしまうのは、私も女だからか。
婚約のあとで

婚約のあとで

 「ふるさとは遠きにありて思うもの」などという言葉があるけれど、それはあくまでも自由に行き来できる状態を確保した上で言える言葉なのだな、と思う。こんな思いをして、必死に子どもを抱えながら日本に帰ってきた人が、本当にたくさんいたのだ。私の祖父母も戦争経験者で、引き揚げてきたときの苦労を詳しく聞いておかなかったのが、今さらながら悔やまれる。今の日本に、戦争が落としていった暗い影はあまり見当たらなくなってしまったけれど、それは影がないこととイコールではない。決して忘れてはいけないことが、まだまだたくさんあるのだ。
光さす故郷へ

光さす故郷へ

 はからずも、仙川環の『ししゃも』に次いで町おこしが主題のもの。こちらは北海道が舞台の、風車の話だ。ご都合主義だなと思うところは多々あるけれど、そういうところに目をつぶれば十分おもしろい。父と子、姉と弟、自分と友達、そういう軸がいくつも組み合わさって風車の完成へと漕ぎ着けていく過程がよかった。
風をつかまえて

風をつかまえて

 おそらくこの本のターゲットとなるであろう、微妙な年齢近くにさしかかってきた私にとっては、これはぐさぐさと痛い作品だった。産みたいのに授からない、産みたいのにおなかの中で育たない、産みたいのに経済的な問題で産めない、産みたくないのに授かってしまう、…。出産にまつわる事情はごくごく個人的なもので、それでもタイムリミットはほぼ平等に訪れるという残酷さ。数年前の自分じゃないかという登場人物もいるし、決して他人事ではないのだ。ドキュメンタリーフィルムを観ているようで、いつもの橋本作品よりずっと好感が持てた。
もうすぐ

もうすぐ

 以前、取材で某牧場の撮影に行ったことがある。豚が飼われているところや枝肉になったところは見られたのだけれど、そのあいだがすっぽり抜けていた。納期に追われた仕事で、そのあいだの部分をあえて追及する時間もなかったのだけれど、実はそここそ、見て、撮影しなければいけなかったんじゃないだろうか。他のいのちを食べないと生きていけない人間だからこそ、知ることから目を背けてはいけないのだ。
いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

 テレビ局によって取捨選択されているニュースの数々。客観的という言葉に惑わされている、受け手の私たち。別の本で、森さんの「メディアを通していれば、それは客観的でなどありえない」という言葉に、目から鱗が落ちたことを思い出す。情報化された現代に生きるからこそ、メディア・リテラシーは必要不可欠なものだ。私も、自分の見る目を磨かなければと痛感する。 一編一編が短くて、長編の方が好きな私としてはちょっと物足りない感じはしたけれど、淡々と書いてあるのに心にずっしりくる筆致はさすが森さん。「彼らが失ったものと失わなかったもの」がいちばん好きだった。
架空の球を追う

架空の球を追う