本を読むということ

 小さいときから、おもちゃは買ってもらえなくても本ならほぼ確実に買ってもらえる、という環境で育ったせいで、本を読むことは好きだった。外で遊ぶのがあまり好きではなかったので、家でひとりで本を読んだりピアノを弾いたりする子どもだったのだ(妹1はこのあたりからもう真逆で、男の子を子分に従えて虫取りに行き、ポケットに虫をたくさん詰め込んで帰ってくるような子だった)。父も母も本を読むのがわりと好きで、父の、天井まである高さのスライド式の本棚がうらやましくてうらやましくて、こっそり自分の本を置いたりして怒られたこともある。中学・高校のときはそれほど本を読んだわけではないけれど、大学でまた読書に目覚め、1コマぽっかりと空いた時間なんかは図書館で好きな作家の本を読んだりしていた。窓際の、大学の正面入口を見下ろせる席が好きだった。よく資料を探しに来た研究室の先生に見つかって、「もうちょっと政治の本も読みなさい」と諭されたりしたっけ。
 大学を卒業して勤めた出版社は小説を出しているようなところではなかったから、仕事とは別によく本を読んだ。さすがに出版社に来るような人たちは本が好きな人が多いから、先輩や上司と「あれ読んだ?」「これおもしろかったよ」と感想を言い合ったり、貸し借りをさせてもらったことも多かった。本好きの人ってこんなにいるんだ! と実感できた時期。東横線のホームで電車を待ちながら本を読み、乗り込んでうまい具合にどこかで座れたら本を読み、仕事で出かけた先で時間をつぶすために入ったドトールで本を読み、という感じ。あの頃は、三省堂書店書泉グランデが近かったこともあって、手当たり次第に本を買っていた。
 そして地元に戻ってきて、私は相変わらず本を読んでいる。ピアノはがんばっていたけれど結局音楽の道には進まなかったし、大好きだった編集者という職業だって、もう違う。けれど、ずっと私は本を読み続けている。何千冊もの本を通りすぎてきたし、これからも何千冊という本と出合うのだろう。今も、図書館から借りてきた未読の本、買ってきてあるのに手をつけられないでいる本が積み上げてある。私には、幸せでたまらない光景だ。