生き残るつらさ

 片山右京さんと同行のお2人が富士山で遭難したというニュースが入ってきたのは18日のこと。なんとか無事であってほしいと思っていたけれど、同行のお2人は亡くなった。ネット上では、片山さんの判断ミスじゃないか責任追及はどうするんだなどという文字が躍っていたけれど、あの状態ではしかたのなかったことだと思う。このあいだ沢木耕太郎さんの『凍』を読んだばかりの付け焼き刃の知識だけれど、全員死亡という最悪の事態は避けなければならない。背負って帰ることができないのならば、その場に残していくのはしかたのないこと。自分は生き延びなければならないのだ。そこで一緒に残って、もし死んだとしても、誰も喜ばない。自然を相手にして、準備万端で登ったとしても、ときには遭難することだってある。それは誰にも責められない。人為的なミスならともかく、南極大陸の山に登ることを目指したトレーニングとしての今回の富士山登山と遭難だったのだから、不可抗力。「冬山に登るなんて」という非難だって、それは見当違いだ。もうちょっと考えて発言すればいいのに。軽々しく口にしたことで、生き残った人がどんな思いをするか、すこし考えればわかることだろうに。
 井上ひさし原作の「父と暮せば」という映画を観たときにいちばんずしんときたのは、主人公が「うちは幸せになっちゃいけんのじゃ」というセリフだった。自分だけが生き残ったことに対して感じるとてつもない罪悪感。生き残ったことに罪悪感を感じてしまうなんて、とても哀しいこと。片山さんが、今回のことを忘れることは決してないだろう。けれど、いつか立ち直って、また目指す山に登ってほしい。今回亡くなったお2人にとっても、それが最大の供養になるのだと思う。
 野口健さんが、今回のことをブログに書いている。これは必読。http://blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/51368887.html